利他は、自分を消すことじゃない。自分ごと、人とつながることだ。
INTROどんな本か
そもそも「利他」って言葉、ちょっと身構えません? 立派な人の自己犠牲とか、聖人君子の親切とか。だいたいそんなイメージで使われてますよね。
この本は、その理解を、誤りではないが核心を外している、と言うところから始まります。著者は批評家・随筆家の若松英輔さん。NHK出版の「学びのきほん」の一冊で、帯には「日本初 利他の入門書」とある。
出発点はコロナ禍。自分本位の行動が、無関係な人や身近な人まで危険にさらすと分かった。遠い国の人とも同じ状況にいると知った。その気づきを捨てて、元のばらばらに戻るのは惜しい、と著者は書く。
で、言葉の源流をたどると、話がひっくり返る。日本で最初に「利他」を使ったのは空海で、しかも「自利利他」と一続きに書いた。自分の利と他人の利は切り離せない。利他は利己の反対側にあるんじゃなく、同じ一つの行為なんです。
そこから最澄・空海、孔子・孟子、吉田松陰や二宮尊徳、ヴェイユやフロムまで、利他の補助線が引かれていく。ざっくり言うと、仏教・儒教・日本思想・西洋思想を、一本の線でつなぐ入門書です。
いちばん効くのは、第3章の出発点だと思う。人は急に利他的にはなれないし、独善にもなる。だから、まず自分がこれまで受けてきた利他を思い出せ、と言う。
俺は2021年に、若手を支えるのは、自分が失敗を許され、放っておいてもらい、チャンスをもらったことの恩返しだ、と書いた。見返りを求める行動は消耗するだけ、とも。あれは、この本でいう利他の入口の話だったと思う。
最後の第4章では、利他の土台に自己愛を置く。自分を愛さなすぎる人が、利己的になる。場面ごとに役を演じ続けると、自分を失って、愛も失う。人を助けることに疲れている人ほど、ここは刺さるはずです。
実践マニュアルではありません。でも読み終えると、善意の押し売りと本当の利他の違いが、少し見分けられるようになる。
利他は、自分を削ってするものじゃない。自分ごと、人とつながることだ。
CHAPTERS章ごとの中身
第0章コロナ禍と、空海の「自利利他」
出発点はコロナ禍です。自分本位の行動が、無関係な人や身近な人まで危険にさらす。遠い国の人とも、同じ状況にいる。この気づきを捨てて元のばらばらに戻るのは惜しい、というのが著者の問題意識です。
利他を「他人への親切」や「利己主義の反対」と見るのは、誤りではないが核心を外している。そこで言葉の源流へ遡る。日本で最初に「利他」を使ったのは空海で、「自利利他」と一続きに書いた。自分の利と他者の利は切り離せず、自利が利他の土台になる。背後にあるのは、二つに見えて一つという「自他一如」「不二」の考え方。現代人はこの由来を忘れて、西洋の利己主義との対比で考えるから話がこじれる、と。
西洋の altruism は、19世紀にコント(1798〜1857)が作った言葉で、訳すなら「愛他主義」のほうが原意に近い。-ism はもともと「道」に近い語感で、Buddhism は仏道、岡倉天心の Teaism も同じ。日本の「利他」より約1000年遅く、東洋のほうが先行していた、という整理です。これはちょっと痛快。
アラン(1868〜1951)の『定義集』では、愛他主義は他人の立場に身を置いて考え、行動する実践。ただし、自分と他人は別々の二者、という前提がある。空海の自利利他は、別でありながら一つ。次元の違う経験だとされます。
アランはエゴイズムを、身体と快楽に結びついて苦痛を避けることに専心する思考とした。著者はこれを、本来のつながりを見失った状態と読み、今の「分断的個人主義」に重ねる。そして、利他は知るだけでなく生きるもの、と本書の方針が示される。知るより、生きるが先。この順序が、最後まで効いてきます。
第1章最澄の「忘己利他」と一つのパン
最澄(767〜822)は19歳で比叡山に入って「願文」を書き、唐で学んで天台宗を開いた人。法然・親鸞・道元ら鎌倉仏教の開祖は、みんな比叡山で学んでいる。人を育てる「場」をつくった人物として紹介されます。
願文の趣旨は、修行の功徳を独り占めせず、修行の余裕のない人々、さらに命あるものすべてと分かち合うこと。自然や動物まで含むので、環境問題を考える視座にもなる、と著者。鍵語は「菩提心」。すべての命を救いたいと感じる心で、誰にでもあるけれど、使わないと錆びる。修行は、それを磨くことだという。
自分が悟っても、苦しむ者がいる限りそこに留まる。この姿勢から、利他の核は「してあげる」より「共苦」だ、と読む。上から手を差し伸べるんじゃなく、横に並ぶ。ここはけっこう大事な転換だと思う。
忘己利他は、818年に嵯峨天皇へ出した「山家学生式」にある言葉です。嫌なことは自分が引き受け、良いことは他者に回す。己を忘れることが慈悲の極み。慈はいつくしむ、悲は他者の悲しみを我がことと感じる。しかも、行っているのは実は仏で、自分で一杯の心に余白ができたときに仏の心が動く、という説明です。
たとえ話が「一つのパン」。山で足止めされた3人に、パンが1個。独占するのが利己で、いちばん弱った人に渡すのが忘己利他。空海はさらに、渡した側も信頼・友愛・喜びという「見えないパン」を得ると見る。最澄は「自分を忘れる」、空海は「自他ともに」に力点がある。違いは優劣ではない、というのが本書の読みです。俺は、この見えないパンの話がいちばん好きです。
第1章泰範の決別、空海の抜苦与楽、道元の愛語
最澄と空海の話は、きれいごとでは終わりません。空海は806年の「請来目録」で、最澄より12年早く「利他」を使っている。それでも最澄は、年下の空海に教えを請うた。「下問を恥じず」の人です。
812年、最澄は愛弟子の泰範を空海に預ける。ところが泰範は戻らず、空海代筆とされる手紙で、利他は最澄に「譲りたてまつる」と決別した。最澄にとっては、利他観の否定と、伝え手の喪失という痛手。それでも、比叡山から鎌倉仏教が実ったことが教えの豊かさを証明している、と本書は書く。いや、これ普通にドラマです。
空海の「抜苦与楽」(『秘蔵宝鑰』)は、根本は苦しみの源を断つこと。源まで降りれば、自他の区別は消える。空海のいう自利とは、自分の中に菩提心があると目覚めることで、利他に偏って自利を見失うことには警鐘を鳴らす。山崎弁栄(1859〜1920、浄土宗)は、これを「向上道」(仏とのつながりを深める=自利)と「向下道」(人々と共に生きる=利他)に分けました。
ここで本書の芯が見える。最澄も空海も、利他を単独では使わず、「忘己」「自利」と必ず組にした。自分を抜きにした利他には、罠がある。俺は、この一点が本全体の背骨だと思う。
もう一つが、道元(1200〜53)の四摂法。布施(まず貪らない)、愛語、利行、同事(自他の区別なく生きる)。いちばん身近なのが愛語で、慈しみから出る言葉、乱暴な言葉を使わないこと。使うほど育ち、利他の心が今は見えなくても、種子として眠っている。人づてに聞く感謝は、面と向かった褒め言葉より深く響く、という指摘はかなり実用的です。
利他は概念じゃなく、生きて確かめるもの。道元の「只管打坐」を引いて、行いのない利他論は、祈ったことのない人の祈りの本のようなもの、と言い切る。口だけ番長を自称する身としては、耳が痛い。笑
第2章利より仁と義、孔子の五つと七つ
仏教の「利」は、良いことをもたらす営み。ところが儒教では、損得や利己を指して、戒めの対象になる。よかれと思った利他が裏目に出る「利の落とし穴」を探るために、本書は儒教へさかのぼります。
孔子(前551〜前479)と孟子(前372頃〜前289頃)。『論語』は6世紀ごろに伝わり、天命・孝・義などの語が生活に浸透した。
『孟子』の冒頭がかっこいい。国の利益を求める梁の恵王に、孟子は「利ではなく仁と義だ」と切り返す。王の言う利は、軍備と資金。利に絡め取られた王は、中身の上ではもう王ではない、と。仁は儒教でいちばん重い徳で、利他の原動力(菩提心・慈心に当たる)。義は、天に「それでよい」と言われる在り方です。
孔子は仁を定義せず、経験から語る。仁は人を愛すること、知は人を知ること。まず愛して、人間を知り、そこで初めて本当の知に届く。知識から入る現代人とは順序が逆だ、と著者。まず愛して、余力があれば書物で学べ、という温度です。
努めてなすべき五つは、著者流にこう言い換えられる。恭は自意識を抑えて誰からも学ぶ。寛は裁かず許す。信は信頼を裏切らない。敏は声を上げない苦しみに気づく繊細さ。恵は慈しみ深く、本当に賢明であること。一つでも本気で続ければ他も連動する、と手のひらと5本の指の図で示される。努めてしないことは、不言実行。「巧言令色、鮮なし仁」で、取り繕う言葉や、状況次第で発言を変える人に仁はない。音にならない言葉を聞く「心耳」も出てきます。
仁を生きる七つの視点は、①相手の嫌がることをしない(善意の押し売りは相手の尊厳を傷つける)、②自分を二番にする(まず人を立て、場を譲る)から始まる。続いて、仁は人に勧めたり任せたりせず自分が主体で行う、評価は自分の死後かもしれないほど長い時間軸で見る、成果は後回しで善行を誇るのは論外(急ぐと独りよがりの「小利」しか見えない)、他人の欠点より長所を見て伸ばす。そして仁は遠くになく、求めればそばに現れる。手がかりは、誰かに愛された記憶を思い出すこと。
打算が入った瞬間に、利は「小利」に縮む。見返りを求める行動は消耗するだけ、という俺の持論は、たぶんこの七つのどこかに全部入っています。
第3章松陰・西郷・尊徳が生きた「人の道」
第3章は、利他を生きた日本の先人たちです。前提として、菩提心も仁も、知識より経験と実践を重んじる。ただ、人は急に利他的にはなれないし、独善にもなりうる。励ますより、黙ってそばにいるほうがいい場面もある。だから出発点は、自分がこれまで受けてきた利他を思い出し、経験し直すこと。
人に何かしてあげたくなったら、まず自分が受け取ってきたものを数える。順番はそっちが先。この本でいちばん実用的な一文は、たぶんここです。
日本の思想家は「道」を、努力で手に入れるものではなく、天から与えられたものと考えた。人はまず受け身。でも、自分の足で歩くという点では、いちばん能動的でもある。
吉田松陰(1830-59)は、松下村塾から高杉晋作や伊藤博文らを育てた人。獄中でも囚人に『孟子』を講じて、それが『講孟箚記』になった。道は高く美しいけれど、素朴で身近で、意識せずに生きられること自体が近さの証拠だ、という読みです。
西郷隆盛(1827-77)については、かつての敵だった旧庄内藩の人々が、言行録『南洲翁遺訓』を編んだ。「敬天愛人」は、人を直接は愛せず、天のはたらきを経て、人が愛の場になる、という意味。漱石の「則天去私」とも響き合うとされる。
二宮尊徳(1787-1856)は小田原生まれ。両親を亡くし、伯父に勉強を禁じられても、菜種を育てて灯油を自作して学んだ。報徳仕法でおよそ600の村を再建し、藩や幕府にも登用される。『二宮翁夜話』の「誠の道」は、書物や師から学ぶものじゃなく、喉が渇けば水を飲むように誰にでも備わっている、と。
第3章尊徳の「徳の家」と中江藤樹の「虚」
尊徳は「智」の罠にも触れます。物知りでも、他人の苦しみを我が事と感じられなければ、道徳から遠い。小賢しい知恵で金を得ようとする者への批判は、今にもそのまま通じる。ただし蓄財は否定せず、危機に分かち合うための蓄えとした。このバランスがいい。
面白いのが、四徳を家に見立てた図。土台が智、柱が礼、梁が義、棟が仁。智は欠かせない基礎だけど、仁まで建って初めて、人を招く「場」になる。尊徳は村に見えない「徳の家」を建て、自分は去って住民に明け渡した。建てて、去る。そこまでが設計に入っているのがすごい。
中江藤樹(1608-48)は日本陽明学の祖です。朱子学が「知る儒教」に傾いたのに対して、王陽明は「知行合一」を説いた。内村鑑三『代表的日本人』で世界に紹介された人物でもある。「孝」については、子は胎内にいる時から、目や耳とは別の道筋で父母の愛を経験している(『翁問答』)と読まれる。
藤樹の鍵語が「虚」。空っぽのことではなく、心の奥の余白です。普段は自意識や不満で埋まっている。いちばん危ういのは「もっと」が止まらない状態で、名誉・利益・高慢・欲望への執着が、扉のない牢獄の壁になる。扉のない牢獄。うまいこと言う。
謙譲は虚であり、場を譲ると、善悪が自然に見えてくる。まず譲れるのは「視座」で、新しい職場に慣れない人の立場で声をかけるのも、その一つ。道元の愛語とも重なる話です。
善をなせば悪が去り、自分も益を受ける。これが空海のいう自利利他。第3章の結論は、自利と利他は一つの行為で、「他」は人に限らず生きとし生けるもの(最澄)、自は消えずに無数の他とつながる、というもの。鈴木大拙のいう、二つのまま一つのような世界(事々無礙・円融自在)で、誰もが母の胎内でそれを経験している、と結ばれます。
第4章利他の土台は、自分を愛すること
舞台は西洋に移って、鍵は「愛」。パウロの愛の一節を「愛を宿した人」と読み替えると、寛容で誇らず自分の利を求めない人の姿になり、東洋の思想家と響き合う、と著者は言う。
ヴェイユ(1909-43)の『重力と恩寵』は、同情はある深さで止まるが、愛はさらに深く降りる、と言う。善を自分の力だけでやろうとすると、限界で身を崩す。テニス選手もコートでは一人だけど、客席のコーチを感じて戦っている。一方向だけの利他は早く尽きて、相互的になって初めて意味のある出来事が起こる。
俺は2021年に、自立とは人を正しく頼れることだ、と書いた。自立のつもりで、実は孤立しようとしていた、と気づいた話です。ヴェイユのこのくだりは、その利他版だと思う。一人で背負う善意は、続かない。
フロム(1900-80)の『愛するということ』(1956)。原題の Art を、著者は「道」と訳したいと言う。愛は運任せじゃなく、鍛錬するもの。一人だけ愛して他に無関心なのは執着で、恋は好みで決まって冷めやすいけど、愛は特定の人を扉にして、まだ知らない人々へ広がっていく。愛がもたらす発見は、自己・他者・人間の三つ。暗い洞窟に閉じ込められた見知らぬ数人の中で、誰かが励ましの言葉をかける。言った本人は、そうできた自分、他者の痛みを我が事と感じた自分、そして人が人と人の「あいだ」に生きていることを知る。
この本でいちばん重いのが、自己愛の話です。「自分はどうでもいい」という愛は、原点の自己愛を欠いている。利己主義と自己愛は正反対で、利己的な人は、自分を愛さなすぎて満たされない。倒れた人にとっさに手を出せるのは、自分を信頼している人だ。フロムの「愛する」は「受け容れる」「許す」に近い。まず、自分を拒むのをやめる。
『ゲド戦記』の師オジオンは、姿を変える遊びの危うさを語る。場面ごとに会社員らしく、教員らしく化けて、同調で心にもないことを言い続けると、自分を失い、自分を愛せなくなる。これが愛を失う最初の罠。第一巻「影との戦い」は影を倒さず一つになって終わる、つまり受け容れがたい自分にも居場所を作れ、という読みです。俺が「期待値のズレ」の記事で、期待に応え続けることは優しさではない、と書いたのも、たぶん同じ罠の話。
利他の価値は、量でなく質。巨額の寄付にも利他はありうるが、名誉を求めた寄付は名誉を得るだけ。結びはフランクルを引いて、愛するとは相手を固有の存在にすること。Aは愛せてBは愛せないなら、利他は働いていない。真の愛のもとでは、人はただ人間であるだけで等しく貴い、で閉じます。
LESSONS明日から使える教訓
- 売上の前に、仁と義を問え経営判断を売上や資金だけで問うと、組織の芯がなくなる。孟子が恵王に返した「利ではなく仁と義」は、そのまま経営者自身への問いになる。事業づくり的にいうと、利益は結果であって、目的の席に座らせたらあかん、ってことです。
- 助けるときほど、相手の嫌がることをするな善意の押し売りは、相手の尊厳を傷つける。励ますより、黙ってそばにいるほうがいい場面もある。一人で背負うと燃え尽きるから、周りを巻き込んで相互的にする。正直、ここは耳が痛い人が多いと思う。
- 場をつくったら、明け渡して去れ二宮尊徳は村に「徳の家」を建てて、自分は去った。基盤を整えたら一歩引くと、現場が自分で動き出す。俺的には、この「去る」まで含めて設計する発想が、いちばん持ち帰りやすい。
CONCLUSION俺の結論
結論。人に何かしてあげたくなったら、その前に、自分がこれまで受け取ってきた利他を一つ思い出せ。順番は、そっちが先だ。
そのうえで、相手の嫌がることはしない。自分を二番にする。成果は後回し。それでもしんどくなったら、一人で背負っている証拠なので、周りを巻き込む。
利他は、自分を削ってやるものじゃない。自分を受け容れたぶんだけ、人ともつながれる。空海からフロムまで、この本はその当たり前を、何度も言い方を変えて確かめさせてくれます。
FOR YOUこんな人におすすめ
- 「利他」という言葉を、きれいごと抜きで理解したい人
- 仏教や儒教の考え方に、入門書から触れてみたい人
- 人を助けることや、期待に応えることに疲れ気味の人
合わないかもしれない人:明日から使える実践マニュアルや、ボランティアのやり方を探している人。本書は思想の入門書で、手順は書いていません。
FAQよくある質問
『はじめての利他学』は何が書いてある本ですか?
批評家・若松英輔さんによる利他の入門書です。仏教、儒教、日本の先人、西洋の愛の思想をたどり、利他は知るだけでなく生きるものだと説きます。
利他とは親切のことではないのですか?
本書では、親切や利己主義の反対と見るのは、誤りではないが核心を外している、とされます。自他がつながる経験であり、自利と利他は一つの行為だという立場です。
「自利利他」とは何ですか?
日本で最初に利他という言葉を使った空海が、自利と一続きに書いた言葉です。自分の利と他者の利は切り離せず、自利が利他の土台になる、という考え方です。
最澄の「忘己利他」とは何ですか?
己を忘れて他を利する、という意味で、嫌なことは自分が引き受け、良いことは他者に回す姿勢です。本書では、してあげることより、苦しむ人と共にある共苦が核だとされます。
孟子の「仁」を実践する七つの視点とは?
相手の嫌がることをしない、自分を二番にする、自分が主体で行う、評価は長い時間軸で見る、成果を後回しにする、欠点より長所を見る、愛された記憶を思い出す、の七つです。著者が整理したものです。
利己主義と自己愛はどう違いますか?
本書では正反対のものとされます。自分を愛さなすぎる人が利己的になり、自分を信頼している人が、倒れた人にとっさに手を出せる、という立場です。
西洋のaltruismと、日本の利他の違いは?
altruismは19世紀にコントが作った言葉で、訳は「愛他主義」が原意に近く、自他を別々の二者とする点が違います。空海の自利利他は、自他は切り離せないという考え方で、次元が違うと説明されています。
この本はいつ発行されましたか?
NHK出版「学びのきほん」の一冊で、電子版は2022年4月30日発行です。紙版は2022年5月30日が第1刷です。
仕事や人間関係にどう活かせますか?
善意の押し売りを避ける、リーダーが基盤を整えたら一歩引く、素でいられる時間を持つ、といった読み方ができます。ただし本書は思想の入門書で、手順書ではありません。
MONOGENIC伊丹谷のブログから
- 連載:Think out the box vol.3 “45歳定年制”若手を支えるのは、自分がしてもらったことの恩返し。見返りを求めないギブアンドギブの話は、受けた利他を思い出す第3章とつながる
- 連載:Think out the box vol.2 “仕事”自立とは人を正しく頼れること。一人で背負う善意は続かない、という第4章のヴェイユの話と同じ場所を見ている
- 人生の苦しみは「期待値のズレ」から生まれる。期待に応え続けることは優しさではない。役を演じ続けて自分を失う、ゲド戦記の罠の話と重なる
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