歴史は人を選ばない。それでも人は、食べて、働いて、生きていく。
INTROどんな本か
歴史がどう動こうと、人は生きていく。この小説は、そういう趣旨の一文から始まる。
『パチンコ』は、韓国系アメリカ人の作家ミン・ジン・リーさんの長編『PACHINKO』(2017年)の日本語版です。池田真紀子さんの訳で、文春文庫から出ている。ここで扱うのは上巻。
第一部「故郷」が1910年から1933年。第二部「母国」は1939年から始まり、上巻はその途中、1953年で終わる。章は番号だけで、章題はない。
舞台は、日本が韓国を併合した直後の、釜山沖の影島。口唇裂と内反足のある漁師フニと、妻ヤンジンの娘ソンジャが中心に立つ。彼女は16歳で、大阪に妻子のある男の子を身ごもり、病で下宿に滞在していた牧師イサクと結婚して、大阪の猪飼野へ渡る。
冒頭の一文は、全体の主題を先に言っている。大きな歴史は、個人を選ばずに巻き込む。それでも人は、食べて、働いて、子を育てる。この小説が見つめ続けるのは、その「生きていく」ほうです。
差別は、年表ではなく暮らしの側から描かれる。家を借りられない。賃金は日本人の半分。通名を名乗る。子どもは学校で、教室の後ろへ移される。声高に告発しない分、細部が重い。
俺が2026年に「人間消耗の三重構造」で書いたのは、人がすり減っていくのを本人の弱さで片づけるな、という話だった。これは個人の問題ではなく、構造の問題だ、と。この小説の男たちの頑なさも、性格だけでは読めない。家長の面子の一部は、差別の構造が作っている。
読後に残るのは、事件の派手さではない。手押し車にキムチの甕を積み、厨房に立ち続ける女性たちの、静かな不服従です。
向いているのは、歴史に翻弄される家族の物語をじっくり読みたい人と、在日コリアンの歴史を小説から知りたい人。上巻は1953年で終わり、下巻に続く。区切りのいい結末はないので、続けて読む前提で手に取ってほしい。差別と戦争の描写があるので、気持ちに余裕のあるときに。
歴史は人を選ばない。それでも、この一家は生きていく。その重さを、静かに受け取る小説です。
CHAPTERS章ごとの中身
第一部1章影島の漁師フニと、娘ソンジャ
第一部「故郷」の扉には、ディケンズのエピグラフが置かれている。故郷という言葉は単なる語なのに、人を強く引き寄せる、という趣旨。そして1章は、歴史がどう動こうと人は生きていく、という趣旨の一文で始まる。
舞台は釜山港の南の小島、影島の漁村。老いた漁師夫婦が下宿人を置いて暮らしている。3人の子のうち育ったのは長男のフニだけで、口唇裂と内反足があるが、頑丈で働き者、穏やかな性格。1910年に日本が韓国を併合し、家賃が上がると、夫婦は下宿人を増やす。フニは書堂で朝鮮語と日本語の読み書き、計算を覚え、下宿の帳簿を任される。
1911年の春、仲人が、総督府の土地調査で小作の権利を失った貧農の末娘、15歳のヤンジンを嫁に勧める。ヤンジンはフニの顔を怖がらずに結婚した。最初の3人の子は乳児のうちに病気で次々に亡くなるが、姑は嫁を責めずに支える。
4人目のソンジャは健康に育ち、フニは溺愛した。ソンジャが13歳の冬、フニは結核で亡くなる。ヤンジンは翌朝から、また働いている。
悲しみを書き込まず、翌朝の労働だけを置く。俺は、この感情を煽らない語りこそが、この小説の強さだと思う。
第一部2〜3章1932年の下宿屋と、結核の牧師
2章は1932年11月。満州占領、世界恐慌の噂、厳しい冬。37歳の未亡人ヤンジンが、娘ソンジャと孤児の姉妹ボクヒ・ドクヒと下宿を切り盛りしている。食事込みで月23円の下宿代は上げられず、骨のだしや豆粉でしのぐ。下宿人6人が、一部屋を交代で使う。
夕食の席で、下宿人の兄弟が中国と日本の行方を議論する。併合から22年。ヤンジンは、誰が支配しても貧しい者の日々は変わらない、という亡き夫の言葉を思い出す。
深夜、平壌から来た青年パク・イサクが疲れ切って到着する。大阪の兄夫婦のもとへ向かう途中のプロテスタントの牧師で、10年ほど前にここに泊まった兄ヨセプの勧めで来た。3章で、ボクヒがイサクの枕に血を見つける。フニの最期を思い出したヤンジンは結核を疑い、彼を物置部屋に移して医者を呼ぶ。イサクは、他人にうつすくらいなら先に死にたいとまで思う。
同じ頃、16歳のソンジャはすでに妊娠していて、1週間前に母に打ち明けていた。子の父とは結婚できない。物語はここで、時間を遡る。
第一部4〜6章仲買人ハンスとの出会いと妊娠
4章は1932年6月。父の死後、市場への買い出し係になったソンジャは、南浦洞の市場で、パナマ帽に白い革靴の新しい海産物仲買人コ・ハンスと出会う。済州島出身で大阪在住、日本語が完璧で大金持ち。値付けは公平で、仲間から一目置かれている。
連絡船乗り場で、日本人の男子高校生3人がソンジャの籠のサバを奪い、朝鮮人への蔑称を浴びせ、体に触れる。現れたハンスは、完璧な日本語で少年たちを脅して謝らせる。そして、仕事を口実に若い娘を中国へ連れ出す話があると警告し、一人で歩くなと言う。
5章、家の裏の入り江で、ソンジャは洗濯を口実に、数日おきにハンスと会うようになる。彼は34歳で、ちょうど彼女の倍の年齢。白いチョークで印をつけた石を岩の割れ目に置き、会いたいときの合図にする。初めて、自分の話を聞いてくれる相手だった。きのこ採りの道中、ハンスは、人の本性は力を持ったときに出る、と語る。字の読めないソンジャは、その言葉を必死に覚える。
6章で妊娠に気づくが、ハンスには大阪に妻子がいる。家を買って面倒を見ると言う彼に、ソンジャは愛人になる道をはっきり拒み、二度と近づくなと告げる。障害のある父に大切に育てられたことが、彼女の誇りの支えだった。
守る人であり、囲おうとする人でもある。ハンスの二面性は、最初の場面からもう描かれている。
第一部7〜11章イサクの求婚と、母の金の指輪
回復したイサクは、海辺を散歩しながらヤンジンの打ち明け話を聞く。父のいない子への世間の目、障害のある家系を嫌う風潮、国全体の閉塞感。8章でイサクは、釜山のシン牧師にホセア書(不貞の女を妻にし、自分の子でない子を育てた預言者)を持ち出し、ソンジャと結婚して子に自分の姓を与え、日本へ連れて行くつもりだと打ち明ける。
9章でイサクは正式に結婚を申し込み、ヤンジンは彼の病を案じつつ、深く頭を下げて受け入れる。連絡船で釜山へ渡り、日本人の店で食べたうどんが、ソンジャにとって初めての外食だった。
10章、シン牧師は、日本では朝鮮人が見下されていて、一人の悪行が全員の評判を落とすと警告する。式はその場で数分。そのあいだにヤンジンは精米店へ向かう。白米は日本人客向けで、朝鮮人には手に入りにくい。それでも店主は少しだけ分けてくれる。婚礼の晩に娘へ白い飯を、という母の願いです。
11章、出発の日。ヤンジンは懐中時計の贈り主を問い、会うなと戒める。時計は非常用に残せと言い、亡き義母の金の指輪二つを渡す。女は蓄えを持つこと、婚家を敬うこと。
白い飯と、金の指輪。俺は、この母の渡し方に、この小説の重心があると思う。
第一部12〜17章猪飼野の暮らしと、ノアの誕生
1933年4月、大阪駅でイサクの兄ヨセプが待つ。ビスケット工場で6年、女工30人ほどを監督する職工長で、話せば朝鮮人と分かって警戒されることを知り抜いている。市電で向かった猪飼野は、バラックと豚と便所の臭いがする街。家主が朝鮮人に貸さないため、ヨセプは8年前に父の金で家を買い、そのことを周りに隠している。義姉キョンヒは子がなく、妹がほしかったとソンジャを迎える。
パク家の日本名「坂東」は、イサクの父が朝鮮語の「反対」に音が近いという理由で選んだ、ささやかな抵抗の名だった。キョンヒは鶴橋駅前でキムチを売る夢を語るが、ヨセプは妻が外で働くことを決して許さない。
16章、借用書を持った男二人が来る。ヨセプが「親分」から借りた120円は、利息込みで今日中なら約213円。家には食費の6円しかない。ソンジャはハンスにもらった懐中時計を鶴橋の朝鮮人経営の質屋へ持ち込み、質入れではなく売ると言い張って、粘り強く交渉する。全額を返し、借用書に清算済みの印をもらう。
17章、男の子が生まれる。イサクに名付けを頼まれたヨセプは、困難の中でも神を信じて従った男にちなんで「ノア」と名づける。
男の面子と、女の判断。この構図は、ここから上巻の最後まで、形を変えて繰り返される。
第二部前半イサクの逮捕と、手押し車のキムチ
第二部「母国」は1939年。6歳のノアが、生まれたばかりの弟モーザスを抱いて警察署の前に座っている。イサク、ユ牧師、フーの3人が逮捕された。きっかけは町内の神社参拝で、フーが頭を下げずに祈り、警官に問われて「偶像崇拝」と答えたことだった。警官は悪人ではなく、疲れた役人として描かれる。
稼ぎ手を失い、ソンジャは働くと決める。イサクなら息子たちの学費を望むはず、と泣いて訴えてヨセプを折らせ、手押し車にキムチの甕を積んで市場へ。最初は声が出なかったが、釜山の市場で母が客を呼んでいた記憶を頼りに呼び込みを始める。日本人客向けに辛さを抑えたものも作り、手押し車は2台に増える。
1940年4月、鶴橋駅前の焼肉店の店長キム・チャンホが、厨房での仕事を持ちかける。週給は1人35円で、ヨセプは週40円。ヨセプの給料は日本人の半分で、夜は修理の副業もしている。高利貸しに借りるのも、妻を働かせるのも、彼にはどちらも屈辱だ。
俺は2021年に、自立とは人を正しく頼れることだ、と書いた。自立のつもりで孤立しようとしていた、とも。ヨセプが一人で背負おうとするものは、半分は彼の面子で、半分は差別の構造が彼に背負わせたものだと思う。
1942年、物語は大きく動く。逮捕されたイサクがどうなったのかは、ここでは書かない。ただ、彼がノアに残す「謙虚に、勤勉に、敵にも思いやりを持て」という言葉は、この先のノアの生き方の軸になっていく、とだけ言っておきます。
第二部後半戦争末期、疎開と一家の行方
1944年12月、戦争末期の大阪。一家の前に、ハンスがふたたび姿を現す。関西の金融業者の婿養子になり、日本名を名乗るようになった彼は、米軍の本格的な空襲が近く日本は負けると告げ、田舎の農家へ疎開しろと迫る。一家の暮らしの裏で、彼がそれまで何をしてきたのか。それがここで明かされていくけど、中身は読んで確かめてほしい。
1945年、女たちと子どもは玉口の農園へ疎開し、ヨセプは長崎の鉄工場へ。数か月後、大阪は焼け野原になる。ハンスは釜山からヤンジンを連れてくる。影島の下宿屋は、課税で人手に渡っていた。
戦争が終わっても、一家が故郷へ帰る道は簡単には開かない。ハンスが一家に告げること、そしてその本当の意味をソンジャが悟る場面は、上巻のいちばんの山場です。ここは伏せておきます。
守ることと、操ることが、一人の中で区別なくつながっている。ハンスは、善と悪のどちらにも置けない人物として書かれている。俺は、彼をただの悪役として読むと、この小説を半分しか受け取れないと思う。
1953年二人の息子と、転校生の春樹
上巻の最終節は1953年1月。朝鮮戦争の最中で、ソンジャは夜中に起きて黒砂糖飴を作っている。祖国からは戦乱、飢餓、コレラの報せばかりで、大阪の貧しさがむしろ恵まれて見える。
ノアは前年の早稲田受験に僅差で落ち、帳簿係として働きながら再挑戦を狙っている。日本人の会社で事務職に就くことにこだわり、夜はモーザスの勉強を見ながら、英語を独習している。
13歳のモーザスは勉強が苦手で、けんかが強い。いじめには拳で応じる。休戦の数か月前、京都から転校生の外山春樹がやって来た。父は戦死、障害のある弟がいて、被差別部落出身の噂からクラスの最底辺に置かれている。モーザスが彼を昼休みの席に誘い、二人は生涯の友になる。
排除された者の中にも、さらに排除される者がいる。差別は一本の線ではなく、重なっている。その重なりを見せたところで、学問で上を目指すノアと、学校からはみ出していくモーザスの分かれ道が見え始め、物語は下巻へ続く。
LESSONS明日から使える教訓
- 差別は、暮らしの細部から知る住居、賃金、通名、学校でのいじめ。在日朝鮮人が受けた差別が、年表ではなく日々の暮らしの側から描かれている。教科書とは別の実感を持てるのが、小説で読む意味だと思う。
- 好条件の話には、出どころがある物語には、条件の良すぎる話がいくつも出てくる。条件が良い話ほど、背後にいる人を確かめる。援助は依存と支配も生むので、どこまで受けるかの境界を先に決めておく。
- 借金は早く清算し、証拠を残す小口の借金は、返済が遅れると利息で急速に膨らむ。ソンジャは持ち物を手放し、その日のうちに払い切って、清算済みの印をもらった。物語づくり的にいうと、この一場面だけで、彼女の判断の速さと誇りが説明なしに伝わる。
CONCLUSION俺の結論
結論。上巻を閉じたら、自分の暮らしの中の当たり前を一つだけ疑ってみてほしい。家を借りられること。本名で呼ばれること。同じ仕事に同じ給料が出ること。
この小説は、それが当たり前ではなかった人たちの、食べて、働いて、子を育てる日々を、声を荒げずに書いている。大きな事件より、白い飯や金の指輪や手押し車のほうが、ずっと長く残る。
歴史は人を選ばない。だからこそ、選ばれずに巻き込まれた一人ひとりの顔を覚えておく。下巻は、その続きです。
NEWS関連ニュース
この本のテーマについて、最近話題になったニュースです。
Pachinko Season 3...? The Latest Updates Are Not Encouraging
原作をもとにしたドラマ版『Pachinko』のシーズン3について、シーズン2の最終回から9か月以上たっても、Apple TV+が継続を決めていないと報じた記事です。シーズン2はエミー賞で2部門にノミネートされ、シーズン1の2倍になったとされます。原作者で制作者のSoo Hugh氏は、3シーズン構成の全体像を当初から提案していたと語っています。
この本とのつながり:本作が小説にとどまらず映像化され、続編の行方まで注目されていることが分かります。原作の物語が、今も多くの視聴者に届いている例です。
FOR YOUこんな人におすすめ
- 歴史に翻弄される家族の物語を、腰を据えて読みたい人
- 在日コリアンの歴史を、暮らしの側から知りたい人
- 何世代にもわたる長編の年代記が好きな人
合わないかもしれない人:物語が途中で終わるのが苦手な人。上巻は1953年で終わり、下巻へ続きます。
FAQよくある質問
『パチンコ』上巻はどんな話ですか?
釜山沖の漁村の娘ソンジャが、日本統治下の朝鮮から大阪へ渡り、戦中・戦後を生き抜く一家の物語です。上巻は1953年までを描きます。
作者のミン・ジン・リーさんはどんな人ですか?
韓国系アメリカ人の作家です。長編小説『PACHINKO』は2017年に発表され、日本語版は池田真紀子さんの訳で文春文庫から出ています。
タイトルのパチンコは、ゲームの話ですか?
上巻は、釜山沖の漁村から大阪へ渡った一家の暮らしと、戦中・戦後の出来事が中心です。タイトルの意味は、読み進めながら考えていく作品です。
上巻はどこまで描かれますか?
第一部「故郷」(1910〜1933年)と、第二部「母国」の途中、1953年までです。ノアが大学受験に挑み続け、弟モーザスが転校生の春樹と友だちになる場面で終わり、下巻へ続きます。
主な登場人物は?
主人公のソンジャ、父フニと母ヤンジン、牧師のパク・イサク、兄夫婦のヨセプとキョンヒ、仲買人のコ・ハンス、息子のノアとモーザスです。
歴史の知識がなくても読めますか?
冒頭から、韓国併合の直後という時代が示され、出来事は一家の暮らしを通して描かれます。事前の知識がなくても読み進められる作りです。
差別の描写はつらくないですか?
住居、賃金、通名、学校でのいじめなど、日常の細部で差別が描かれます。読むのがつらい場面もあるので、気持ちに余裕のある時期に読むのがおすすめです。
ハンスはどんな人物ですか?
ソンジャの恋人で、息子ノアの実の父にあたる人物です。一家を陰から守る一方、金と情報を握って一家の運命を操る面もあり、評価が分かれる存在として描かれます。
上巻だけ読んでも楽しめますか?
上巻だけでも一つの時代の区切りまでは読めますが、物語は1953年で終わり、下巻へ続きます。続きが気になる終わり方なので、下巻も手元に置いてから読み始めるのがおすすめです。
MONOGENIC伊丹谷のブログから
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- 連載:Think out the box vol.2 “仕事”自立とは、人を正しく頼れること。一人で背負おうとするヨセプと、支え合う女性たちの対比につながる
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